2012年11月16日

空気を読む=以心伝心?

産経新聞のコラムから、「空気を読む」時代では無くなってきたと言う話。実は、最初このコラムを読み始めたとき、ネットワーク時代のコミュニケーションの話だと思って読み始めたんですが、どうも国際化時代におけるディベートの話をしたかったようですね、筆者は。少し前なら、海外出張でもしない限りそう言う機会はあまりなかったわけですが、今では国内の企業であっても、普通に生活していても、自分意見や主張を相手に納得させるような機会は多いわけで、そう言う意味では筆者の意図は分かるんですが、でも一寸釈然しないことも。

「以心伝心」というのは、相手の事も分かっている、周りのことも分かっている、自分のことも相手に伝わっている、だからお互いに何も言わなくても、その時に必要なこと、相手が考えていること、やらなきゃ行けないことに関して暗黙のうちに合意が出来るというようなことだと思っています。その為に必要なことは、やはりリアルに相手と話をして、単に相手の言っていることだけで無く、相手の身振り手振り、周りの雰囲気、これまでの経緯、そしてそういった事をリアルタイムに感じて解釈する能力みたいなものが無いとなかなか出来ません。もう一つは、日本人あるいは日本の生活環境って、世界でも非常にまれな均質的というか同一性があって、かなり類推とか推測することが可能なことも、その精度上げていると思います。だからこそ、自分で考えたことも結構相手に当てはまったりするわけですよね。

で、今のネットワーク時代だと、先ずコミュニケーション手段としてはメールです。その次が音声通話でしょうか。だから、相手から取得出来る情報が格段に減少してしまいます。また周りから感じられる副次的な背景情報もほとんど無くなります。じゃあ、テレビ電話ならどうだろうと思うけれど、それもテレビ画面の二次元環境から得られる情報は、リアルの三次元あるいは時間経過も含めて四次元情報と比較すれば格段に少ないわけで、単に相手の顔を見て離せば良いと言う事でもありません。こういう場合、これまでのように自分の感じたことが相手と同一という保証は全くないわけで、それこそ契約書の条項じゃ無いけれど、一つ一つ食い違いや間違いが無いか確認していかないと、後でとんでもない勘違いをしていたと発見してしまったりします。でも、そう言う世界であっても、結局は「空気を読む」=「先を読む」という能力は必要なわけで、単にこれまでの情報収集方法・能力とは一寸異なる方向の方法補や能力が要求されているということなんですよね。

例えばメールの文章についても、その人のクセみたいなものはあるわけで、こういう言い回しの時は本気だけど、こういう表現があると何か探っている状態、であるとか。あるいは、絵文字であったりとか、以前比べるとなかなか情報量的には少なくて難しいかもしれないけれど、そういう部分で相手の心を読み先を読むという能力が今の時代では必要なんですよね。さらに言うと、メール文化の今の場合、相手との「会話」以上に「文章力」が要求されるわけですよね。さらに、国際化で英語が必要になるわけで、その場合にはSpeakingだけで無く、Writingがさらに重要になります。実は「会話」の場合、口から出た言葉はどんどん消えていくので、多少の言い間違いとか文法の間違いなんかって、あまり気にならないんですよね。ところが、文字にして記録に残ると、間違っていることもそのまま残るわけで、これって返って難しい部分だと思っています。だから、話をするときに注意する以上に、書き物の時には言い方なり結論の書き方なりに結構気を遣います。そこには、こういう言い方をしたら相手はどう感じるか、どう理解するかという事も考えないといけないわけで、それも「相手の空気を読む」ことだと思います。別の言い方をすれば、国際化社会になれば、コミュニケーション手段が時代と共に変われば、読むべき空気も違ってくると言うことなんですよね。

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