2011年9月1日

歴史が評価する

日本の災害の一つがやっと終わりましたが、まだまだその災害が残した爪痕は深く大きく、これから回復するには長い時間とコストが掛かりそうですよね。その災害復興に当たるのが、同じ穴の狢達ですしね。いゃ、日本の政治の話なんですけど。

その災害、いや菅前総理が、自分の実績は歴史が評価するみたいなことを最後に行って辞職したわけですが、この「歴史が評価する」という言い方、結局は負け戦での負け惜しみのような気がします。「歴史が評価する」という限りは、化なり長い時間が必要でしょう。最短でも50年位? 場合によっては100年後位の評価が「歴史の評価」だと思うんですよね。別の言い方をすると、その時に生存していた人達・利害関係のあった人達が居なくなり、全く関係ない人達が客観的に評価することで、その時代では主観的に評価されるような部分を排除して再評価使用という話だと思いますから。これって、一見正しそうに見えるけれど、一つ問題なのは、それだけ時間が経過してしまうと、今のようにインターネットの色々な場所に情報が保管されるような時代であっても、化なり揮発することがあるだろうと言うこと。また、それだけ時間が経過してしまうと、世間や人の価値観も変化するだろうし、そうなると別の視点からの評価がされた場合、果たしてその時代の評価と同等と言えるのか、と言う事も疑問として生まれます。

さらに、特に政治という事であれば、一番必要なのはその時その時代に生きていた人達がいかに満足するかと言うことも大切な要素だと思います。もちろん、次の世代、将来に対しての責任もありますけど、でも今の時代の人間が全うに生活できない限り、次に続く世代は先細りしていくわけで、優先度としてはまずは「今何をどうする」という事が最優先項目だと思います。だからこそ、まずは今どのように評価されているのか、と言う事を少なくとも政治に関しては考えないといけないのでは。もちろん、その度が過ぎると衆愚政治に陥るわけで、その境界線は慎重に見極めないといけないわけですけどね。

さらに言えば、歴史が評価するだけの価値・規模・実績と言うものもあると思うんですよね。それに対して、高々一年ちょっとのどうしようもない国政について、10年20年後ならいざしらず、50年100年後の人達が何か論じるとはとても思えない。あっ、あるとしたら「日本の政治史暗黒時代」とか言うテーマならあり得るかも(笑)。

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