2016年10月11日

多様性

蓮舫氏の二重国籍問題に絡んで、多様性獲得のためには多重国籍は有用みたいな話がでていますが、それって単なるこじつけだと思う。多様性獲得に必要な事は、どれだけいつもの自分の生活環境・作業環境と異なる環境での体験・経験・行動出来るかに尽きると思います。仮に江戸っ子の人が子供の頃にアメリカにいって5年とか10年とか生活したら、かなり異なる意識を持つと思うけれど、アメリカ生まれの人が子供の頃に日本に戻ってきて生活したら、多分日本に染まるように。やはり一番大きいのは子供の頃にある程度の年月生活した場所の経験や知識や考え方が一番影響すると思う。「子供」と言っても、一番大木なのは中学高校生くらいでしょうね。小学生くらいで日本に戻ってしまうと、多分外にいた事は忘れて、日本の事が大きく残ると思う。勿論、日本に戻ってからも、例えばアメリカンスクールに通うとか、英語の環境にいる事で、記憶が薄れる事は防げるとは思うけれど、やはり中学から高校生くらいまでの経験が一番人生の中で残るんじゃ無いだろうか。

また、親の仕事の関係で数年ごとに世界各地を転々とした人を知っているけれど、逆に色々な場所での経験がありすぎても「多感」という事あるかもしれないけれど、自分のベースが無いので「多種」ではあるけれど「多様」というのにはちょっと疑問を感じたりします。でも、ずつと日本でしか生活した事の無い人に比べると、また例えばアメリカと日本の二国間という人に比べると、一寸変わった「多様性」ではあると思うんですけどね。

「多様性」という話を聞く度に感じるのは、そう言うことを強調する人って結局は日本の方法が気にくわない事の理由にそう言うことを言う人が多いように思います。「多様性」を認めるのであれば、日本もその一つであり、もし日本での生活が一番主になるのであれば、先ず多様性の一つとして日本の事を認識しなきゃいけないのでは。勿論、何でもかんでも受け入れる事が「多様性」では無く、それぞれ認めるところは認める、批判するところは批判するという公平な視点と判断が多様性の「核」だと思う。で、その時にその判断の基準として一番基本になるのは、やはりその人の中で一番中心になる場所での経験じゃ無いでしょうか。だから先祖の時代から日本にいた人でも子供の頃からずっと海外を回っていたら、その海外の中で一番経験として強烈に記憶に残る場所が中心になるだろうし、その逆もあるだろうし。それって、親の国籍で決まったり、出生地で決まったりする「国籍」というものとは、全く別の視点になると思います。

私はそんなに長い海外経験があるわけでは無いけれど、それでも50年以上の人生の中で1割近くは主にアメリカで仕事やプライベートで生活した経験があるので、基本日本中心の考え方だけれど、アメリカの良いところ・悪いところの判断もある程度分かるつもりです。ただ、その程度の経験で「多様性」を持っていると言うつもりは無いけれど、色々な選択肢を知っていた上で判断する、という能力は主に海外の人達とずつと仕事をしていく上で獲得出来たと思っています。その上で言える事は「多様性」というのは、いろいろな経験知識を持っていると言う事では無く、色々な意見や主張のある中で、どれだけ自分の意見の正統性利益を主張して、どれだけその主張を相手に理解させるかと言う事だと思います。それを、変に「多様性」を声高に言う人ほど、「それは利己的だ」というような反論をしてくる気がする。「多様性」だから、何でもかんでも受け入れるのでは無く、誰もが譲歩して妥協できる一つの結論を導き出す事が「多様性」の要件だと思う。前者の場合は、誰もが自分の主張が通り満足度は高いかもしれないけれど、その分他の人との摩擦も増えるわけで不満も多くなるでしょう。後者は満足度は多くないかもしれないけれど、他の人とは摩擦は減る分、さらに相互に理解していく機会も増える気がするんですよね。それを実戦しているのが世界の国々だし、そう言う経験の少ない日本では前者の考えを進めようとして、ちぐはぐな世界になっていく気がする。

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