2016年3月31日

SEALDsと日本死ねの違い

そんなもの比較するなと言われそうだけど、何となく似ている事象なのに結果がこれだけ違うという例ではないだろうか。どちらも、一般市民(SEALDsは少々疑問あるけれど)からの声が切っ掛けで、野党が取り上げて大きな話題になり、ある意味社会的なムーブメントになったけれど、その結果はかなり違う。

確かにSEALDsは、今でもデモやったり集会を開いたりしているけれど、彼らが主張するところの安全保障法案が無くなることや変わることは今のところ無さそう。逆に「日本死ね」ブログの方は、政府中心に対策も取られ始めて、まだまだこれからだけれど、すこしずつ前進を始めています。ブログ主の意図は分からないけれど、でも困ったと声を上げて対策が取られようとしている。

内容や方向性、さらには声を上げた主体も異なる自称だけれど、一方は活動はプレゼンテーションは派手だけれど、世間一般的にはもう「旬」の時は過ぎて、飽きられてきている。もう一方は、本人のブログはそれこそ匿名ブログでネットの中に紛れて消えてもおかしくなかったものの、何か一つ引っかかり話題になり、多分こっちの方が扱いやすいと野党側(旧民主党)も思ったんでしょうね、一つの動きとして確立しつつあります。内容としては、国防という国の根幹に関わる問題と、保育という地方自治体の問題の規模の違いはあるだろうし、それ故手の付けやすさの違いもあるでしょう。

一番の違いは、前者のSEALDsは積極的に当事者が前に出てきていて、自分達の主張をするのは良いのだけれど、それが逆に彼らの危うさとか怪しさとか曖昧さとか、逆効果になってきていること。一部メディアでは「普通の学生が」とは言うけれど、普通の学生が学業そっちのけで、あれだけ専業のようにデモやら何やら繰り返す余裕があるとは思えない。それに、言っていることが、支離滅裂とまでは言わないが、何を言っているのか分からない。ラップ調でシュプレヒコールするのが流行らしいけれど、逆に何か訴えているのか歌っているのか分からないから心に染みこまないし。

彼らが何処で間違ったかと考えると、最初からそういう予定だったのかどうかは分からないけれど、変に悪目立ちしていることが、本心かどうかは別にして彼らの主張すること行動することを、ますます胡散臭く感じさせていると思う。仮に彼らが本当に問題意識を持っていて、今の安保法案を変えたい、廃止させたいのであれば、あんなデモパフォーマンスをしている間に、何が問題なのか自分なりの意見を理路整然と説明出来るくらいの勉強をすべきだし、あるいはそう言う主張に共感して貰える仲間を増やすべく、勉強会とか後援会みたいなものをもっと地道にやるべきでは。やたら参加者の数を増やしたり、やたら路上でのパフォーマンスを誇示したり、そういう「力で解決する」と言う事は自らが非難している相手と同じ事だという理解は無いんだろうなぁ。それに、今では大手のメディアだけでなく、色々な媒体や手段でその様子がリアルタイムでネットに流れるわけです。「若者」と言いつつ、結構高齢の集団が入っていたり、何か関係無い垂れ幕やのぼりか多く見られたり、あるいは日本の問題に何で日本人以外の参加者がいるのかとか、逆に疑問点を増やしているだけなんですよね。「日本死ね」のブログ主がそこまで考えているのかどうかは分からないけれど、少なくとも部をわきまえている印象を受けるだけでも、そちらの問題解決をして上げたいという気持ちは沸いてきます。それが大きな違いなんだろうなぁ。

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