2016年3月19日

メディアの義務

原子力規制委員会と朝日新聞のバトル。双方共にデッドクロック状態ですが、如何せん記事などで見る限りでは、朝日新聞の意見には説得力を感じません。どうしても、自分達は間違っていない、なぜならの「なぜなら」の部分が出てこないから。確かに報道は事実として、機能の異なるモニターを混在して設置しているわけですが、規制委員会側の「これこれこう言う理由で問題無い」という回答に対して、朝日新聞側は「機能が低い物があるのはおかしい」という持論を言うだけ。例えば、そのカバレッジに穴があるとか、台数が不足しているとか言うなら分かるけれど、単に機能の違いを問題ししたのに規制委員会の説明に対しての反論が無い。

この手の「言った、言わない」みたいな話は、新聞などの取材記事では結構みられるケースで、全てが今回の様に食い違うわけでは無く、場合によっては取材を受ける側が正直に話しをしていない場合も有るわけで、そういうときにメディアとして補強取材をして、それによって意見が異なるなら分かります。でも今回の場合は、そういう裏付け取材も内容だし、さらに朝日新聞が悪質だとおもうのが、異なる原発の話をまるで一つの話のようにしていること。個々はこう言う問題あり、こちらはこう言う問題があると、本来別の事象のことを一つにすることで、何となく自分達の意見が正しいと言う事を仄めかそうとしている雰囲気。でも、それって「報道」じゃ無いですよね。単なる「欺瞞」「詐称」でしかない。

最近のメディアって、自分達の意図した方向に誘導使用と感じる記事が多いですよね。まぁ、メディアといいつつも私企業であるし、放送局と違って「言論の自由」があるから、それは別に悪いことでは無いけれど、時々自分達の都合の良いときには「公共性」を声高に主張するんですよね。それならそれで、公共の名に恥じない程度の中立性なり公平性を維持すると共に、正直な報道を心がけるべきでは。メディアなる存在が、小説に出てくるCIA等の情報機関による宣伝工作をしているように感じますね、最近は。それって、彼らが一番非難していることのはずなのに。やはり、灯台もと暗し、紺屋の白袴ということなんだろうか。

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