2014年12月22日

英語の必要性

英語の必要性に関しての産経新聞の記事。いつも思うんだけど、圧倒的に日本語の使用率が高い(と言うか、それが殆どの)日本で日本語中心の生活をしている以上、英語の学習方法も考えないと意味の無い教育になってしまうんじゃ無いかと思います。それと、「ツールとしての英語」なのか「言語能力としての英語」なのか、それが混同されている気もします。自分は学生時代は英語が苦手で、それでも何故か外資系IT企業に入社して、何故か何故か開発部門に配属されて、海外出張(=US)にも何度も飛ばされて自然と英語能力を身につけたわけですが、そこで感じたのは「母国語で知らないことは英語でも言えない」ということ。余り英語能力が高くないと、どうしても直訳になるわけですが、その時に日本語の意味をちゃんと理解していないと、そのまま文字通りの翻訳をすると全く意味が通らない。

典型的なのが日本の慣用句的表現を翻訳するときで、「目から火が出るほど辛い」とか「喉から手が出るほど欲しい」みたいな事をそのまま訳しても絶対通じません。その言葉の意味や背景を考えて、それを相手に通じる形の言葉にして伝えないといけない。従って、先ずは日本語としてちゃんと理解していないとその翻訳作業も変になるわけで、だから日本語としてちゃんと伝えられる能力を先ず持たないとダメだなというのが実感です。

勿論、日本語として正確に理解していたとしても、それを伝える英語の先ずは語彙が無いとダメだし、当然文法だって正しくないと伝わらない。さらには発音だって重要出し、書き言葉はまた少し違うもの。語彙を増やすときに一番困るのが、日本語での「和製英語の弊害」で、これが邪魔してしまう。日本語の中での会話として和製英語っていうのは、準日本語的な位置付けにあるから無視するわけに行かないけれど、それに相当する正しい英語も将来的には必要になるわけだから、そういう所を先ず明確にするのと、よく使う単語から英語を覚えることが重要じゃ無いかな。それは小学生くらいからでも良いかもしれない。文法に関しても、まずはS+VとかS+V+Oとか基本的な文法での表現を、体で覚えるのが良いんじゃ無いだろうか。一般的な会話は、殆どその範囲で賄えるし、そこから派生して幾皿に複雑な表現は高校生とか大学生くらいのレベルにならないと難しいと思う。英語が生活後で四六時中回りで使われているなら、自然と身につくものでも、それを教えるとなるとやっぱり耶蘇悪側にもそれなりの土台が無いと厳しいと言うのが実感。

で、一番の難敵は「発音」じゃ無いでしょうか。日本人同士で話していると、どうしてもフラットな日本人にしか伝わらない発音になるけれど、これはやはりNativeの発音に先ず慣れて、それを真似ないと。これが一番むず過信じゃ無いだろうか。個人的には、最低でも半年くらい武者修行に行くのが一番良いと思うけれど。

いつも思うけれど、今の世の中「英語で会話が出来る、英語で仕事が出来る」っていうのは、企業の中では普通に求められる能力。それならそれで、せめて大学の中ではそれに特化したクラスとか講座があっても良いかも。最も、その為には先生の側にそれなりの能力が要求されるわけで、それはそれで大変かもしれないけれど、大学の付加価値としては良いかも。

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