2014年2月22日

発言者の責任

森元首相の浅田選手への発言が物議を醸しているわけですが、当初はこの人の昔からのクセである「一言も二言も多い」余計な発言だと報道されていたし、そう思っていました。所が、福岡での講演会での発言全文が公開され手いるのでそれを読むと、言葉遣いとか内容に首をかしげる部分は幾つかあるけれど、決して当初報道され足るような無籍なものでは無いんですよね。ただ、こうやって文字に起こされて全文を読み直してみれば「あぁ、こういうことを言いたいんだ」と理解出来るけれど、これを講演中に聞いているだけだとそんな余裕は無いし、多分印象的な「必ず転ぶ」とかいう言葉だけが記憶に残るんでしょうね。だから、こういう責任のある人は、全体として良い事を伝えれば良いのでは無くて、それこそ文章一行一行、言葉の一つ一つ何処を取り上げられても齟齬の内容な話をしなきゃいけない。

そう言う意味で、この時の森元首相の発言内容は、浅田選手以外の部分でも「??」と思うところはあるし、自ら言っているようにソチから帰国直後で時差ぼけもあったような状態での講演会での発言で考えがまとまりきらないところもあったかもしれないけれど、でもそれも含めての発言者の責任。その点は、批判されていも仕方ないし、政治家を引退したとは言え、東京オリンピック・パラリンピックの責任者でもあるし、日本の体育関係の大御所なわけですから、批判するにしても誉めるにしても、誰が聞いても誤解の無いような話をしなきゃね。

で、それ以上に問題だと思うのが、例によってメディアの我田引水。断片とは言え、事実を取り上げているから、それ自体は「嘘」では無いけれど、その組合せ方によって印象操作を意図したような内容を作り出している。福笑いで、その人の顔のパーツを使って顔を作っても、微妙な位置関係の違いで元の顔とは違った印象になるように、そう言う切り貼りをして、自らのあるいは自社の思惑に向かうような内容に仕上げています。NHKを除けば、どのメディアも「企業」なので、株主なり読者なりスポンサーなりの意向に沿う方向性を持つことは良いと思うんですよね。ただその場合でも、「事実はこうです。しかし自分達はこれこれの理由で、こう考えます。」というルールは守られるべきだと思います。「森元首相は浅田選手の団体戦出場を非難しているが、それはスケート強化会の戦術ミスではなく、体育協会としての戦略ミスではないのか。」とか、ね。

もう一つは、こういう講演会とかライブでの話を文字に書き起こすことによる情報劣化の問題。口から出た「言葉」を、そのまま「文字」に置き換える事は可能だけど、話しているときのニュアンスとか表情とかジェスチャーとか、言葉以外の属性は文字に落とした途端に消えるわけで、そうなると文字から受ける印象は全く違ったものになります。前後の文脈から推測でき場合もあるけれど、そうで無い場合も多々有るわけで、そのまま文字に落とし込んでも情報が欠落するのに、それをさらに限られた文字数に凝縮するメディアの責任は大きいわけです。そう言う責任感みたいなものは、昔の新聞とか放送では見られた気がするけれど、最近は手軽なインターネットメディアの発達に伴って、今日来のレガシーメディアも同様に軽薄短小になってきた気がする。そのことを、もっと自戒して欲しいですよね。そう言う意味で、今回の発言騒動は、森元首相3.5 vs メディア6.5で、メディアの責任が大きいと思う。メディアも「記事」という発言者の責任をもっと重要に考えて欲しい。

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