2013年1月22日

文字情報

毎日新聞のコラム「余録」に掲載されていた、先日の芥川賞受賞作品に関しての話。受賞した黒田夏子氏については正直菜ところ全く知らない人だし、作品も読んだことが無いので、偉そうなことを言える立場では無いけれど、でも「平仮名を多様した作品で、75歳での最年長受賞」と言う事が何か先行的に取り上げられている雰囲気で、じゃぁ実際の作品はどうなんだという話が余り見えてこない気がします。

コラムの中に、作品の一部が書かれているんだけど、私なんかその一行を見ただけで「あぁ、駄目だな」とGive-upしてしまいそう。「文章を読む」と言うとき、漢字が入っている時って、ある意味その漢字を「パターン認識」して読んでいるんですよね。「今日は、空気は冷たいけれど、きりっとして気持ちの良い朝でした。」を「きょうは、くうきはつめたいけれど、きりっとしてきもちのよいあさでした。」と書いてしまうと、「今日」「冷たい」「気持ちの良い」「朝」という、その文章で言いたい部分が何なのか、よく分からない。これが実際の会話であれば、例えば「つめたい」とか「きもちのよい」とか、「話し言葉」で強弱もつくだろうし、ジェスチャーもあるだろうし、話している表情も加わるだろうし、そう言う属性情報が有るから、本来の文字情報部分が「仮名書き」であっても、必要な情報が伝わるわけですよね。

でも、そう言う属性が無くて、最も簡略化された「仮名書き」だけ渡されたら、そこに含まれる情報は単なるアスキーのデータ列でしか無く、情報としての価値は激減してしまいます。作者も知らないし作品も読んだことが無いので、この作品の良し悪しを言うつもりは全くないけれど、ただ、時代の流れと共にこういう作品も今後増えるんだろうなとは思うけれど。

この「仮名書き中心」の作品書籍は、どんな風に印刷されているのかちょっと興味あります。もし、普通の本のように、綺麗な文字で印刷されているのなら、個人的には「なんだ」という気持ち。実際の会話・独り言のように、途中途中に空白があったり、強弱や抑揚を表すような、文字のサイズの変化や太字になったり書体が変化したり、とか。そう言うことも含めて、漢字やカタカナ、縦書きや横書きという、日本語のユニークさを生かした、豊かな情報媒体となる書籍の方が、私は好きだし読みやすいと思うんですけどね。

コラムの中で「言葉の手触りが感じられる」と書いているけれど、本当にそう思っているのだろうか。単に普通に印刷されているだけだったら、私は、テキストスピーチの無機質感を感じそうな気がする。

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