2012年3月6日

被災地のモニュメント

昨日夕方のニュース番組だったか、被災後一年が過ぎても、まだ当時のまま残されている被災した建物や、ビルの上に津波で打ち上げられたバスや船などを、被災の記憶としてモニュメントとして残すか、復興のために撤去するのか、いろいろな想いで被災地が揺れていると言う内容の放送をしていました。

個人的には、あれだけ大きな被害が有ったわけだから、なんからの形でその「事実」は後生に伝えるべきだと思うけれど、でも津波被害をそのまま残されて、それをこれからも毎日見なくてはいけない地元被災者の方の気持ちも大変だろうなと感じます。で、思ったのは、一月とか期間を決めて、今ある映像技術の粋を集めて、徹底的に被災地の様子やああいったモニュメント的なものの映像記録を収集したのちすべて撤去して、今度は復興に向けてエネルギーを集中してはどうだろうか。今回の場合は、リアルタイムで津波の様子を記録した個人所有の映像も沢山あるわけで、そういうものを全て集めて、将来的に3Dとかあるいは立体的な物理的なモニュメント作成も出来るようなデータを保持しておけば、記憶には残りつつ、でも日々の生活は圧迫しないと思うんですよね。

勿論、今の映像技術にしても、将来の人から見たら幼稚な粗いデータでしかないかもしれないけれど、そんなレベルの状態のデータであっても、いろいろな角度からいろいろな時間軸のデータを集めておくことで、補完することは可能だと思うんですよね。今でも、昔の色あせた写真を再生したりとか、ノイズ交じりの音源をクリアーにしたりすることが出来るわけで、ああ言うことが将来はもっとスマートに完璧に可能になるだろうし。

勿論、物理的に存在する、本当にあの震災が残した「物」は、より大きな説得力を持つことは確かだけど、物理的存在はいつか朽ちていくわけだし、将来回りの環境が変われば、そこから受ける印象もかなり変わってしまうと思うんですよね。例えば広島の原爆ドーム。被災直後の写真等を見ると、回りが焼け野原になっている中で、あのドームだけが残っているから原爆の悲惨さや怖さを感じるわけだけど、今のように広島の街が復興し、回りにもっと近代的な建物が建ってしまって景観が大きく変わると、ドームの見え方・感じ方も変わってしまうと思うんですよね。

もう一つ感じるのは、例えば何か衝撃的な被害の状況(例えば、大きな船が建物の上に乗っているような)を、モニュメントとして残した場合、それが鎮魂とか将来への記憶という本来の目的よりも、より観光的な方向に振れていくように思うんですよね。実際、まだ復旧作業が続いていた頃から、県外から見物に来る人間がいたという話はあったわけで、そういうことがこれから何年も続くことが果たして地元にとって良いことなのか、と。それだったら、新しい都市計画の中で、街の中心地に津波の時の避難場所も兼ねて、標高20m位の小山・台地を各地域に作ることで、100年200年後の子孫が「何故、どこにも街の中心に小高い山が同じようにあるのか」と疑問に思うことで、津波の記憶は継承されていくんじゃないかと思います。いずれにしても、映像の持つ迫力は大きいわけで、物理的な被災地のモニュメントを映像化して仮想化していくことも、一つの方法じゃないかと思います。

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