2008年6月27日

ユビキタス社会

たまたま目にとまったPC Watchのコラム。私も韓国に仕事で何度か行ったこともあるし、地下鉄にも乗ったことがあるけれど、あの光景から「ユビキタス」に思いは行かないなぁ。
韓国での体験でふと思ったのは、「マナー」や「ルール」の大義の下で、本来の携帯所有のメリットまでが制約されてしまっているような現実を改めて感じた。
と書いているけど、それはおかしいでしょう。出来る・出来ないとは別に、制約すべき事柄、守るべき規則が必要だから「マナー」「ルール」が存在するわけだから。 同じ車内であっても、新幹線の中では大体の人は通路に出て通話しますよね。もちろん、ほぼ着席している状態の新幹線と満員で身動きを取るのも難しい地下鉄と比較するのは無理があるかもしれないけれど、だからこそ高々数分で次の駅に到着する地下鉄車内で会えてマナーやルールを破って携帯が使えるようにする必要性がどれだけあるのか。で、続く段落で述べている、
また、「ルール」を守ることが目的化し、思考停止に陥って、本来ルール作成の主旨であろう「状況によって周囲に配慮する」ということを理解しない人の増加を促してないのだろうかとも思った。最近では、携帯メールに夢中で通路の中央で邪魔になっているのに気づかない人や、座席の人に傘の滴が垂れているのに気づかない人、なども見かける。
というのも意味不明な意見だなぁ。通路を塞いでいるのも、濡れた傘に気を配らないのも、ルールを守ることを目的化して思考停止しているのではなく、単にその程度の「礼儀・躾」がされていない人間だからでしょう。それって、単純に育てられた家庭の問題で、携帯云々とはあまり関係ない話のはず。最後の災害時使用の話も含めて、ユビキタスという事に無理にこじつけているような筋立てですねぇ。 「ユビキタス」というものは、一般的には「いつでも、どこでも、だれでも利用出来る」というような意味で理解されていると思うし、それは正しいとは思うけれど、でもその理解のベースには暗黙のうちに了解されているであろう、マナーとかルールの存在もあるはず。地下鉄の中にまで携帯のネットワークが繋がるのは良いでしょう。でも、その中でも例えば車内での音声通話は遮蔽するけれど、携帯メールとか非常時通信は利用出来るような仕組みこそが、本来望まれて実現したい「ユビキタス」なんじゃないだろうか。例えば、綺麗な花が咲き乱れている光景。自然に群生している状態でも「美しい」と感じるだろうけれど、花壇を作り色や種類ごとに植え分けたり、花を踏みつぶさないように小道やテラスを作ってあげるのが「ユビキタス」社会じゃないだろうか。

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